インドネシア:総督クーンが支配 オランダがバンダ征服へ
バンダの運命は、「力だけが正義で、バンダ人、イギリス人そしてバタビア人を滅ぼす力と権限を持っているのは自分だけだ」と信じている自信に満ちたオランダ東インド会社(VOC)の総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(1587~1629年)に委ねられることになった。
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彼はVOCの活動の中心をバンテン港からジャカルタ(バタビアと名を変える)に移してバタビア城を築き、千人の兵力を率いてオランダに反抗したイギリスの要塞とジャカルタの旧城を焼き落とした。クーンはアンボンにもオランダの地位を確立したが、その後の彼の重要な戦略はバンダを征服することであった。
この美しくも実り多い島々は、「圧倒的な軍事力で奪い取るべきで、頑固で妥協しようとしない住民は滅ぼしてしまうか、どこかに追い出してしまうしかない。ナツメグとメースの生産には労働力として奴隷を入れ、監視人として地元のオランダ人を使うしかない」とクーンは考えた。
彼のバンダでの計画は、VOCの前任者が考えていたことと同じで、何も新しい案ではないが、クーンの場合はその決断力、冷酷さ、効率の点で大きく違っていた。クーンはイギリスによる抵抗を懸念していたが、彼に抵抗する気概のあるイギリス人(コートホープもその1人であった)がオランダ軍により殺されて以降、その心配はなくなった。彼の次の計画は、インド洋に広く散らばっているイギリス艦隊を壊滅することであった。
ところが1619年7月にロンドンでオランダとイギリスの間で二国間の一切の争いをやめる協定が結ばれた。過去の悲しい出来事は「忘れ、かつ許し合う」というものであった。香料諸島(マルク諸島)については、ポルトガルとスペインを完全にこの海域から追放し、蘭英両国でスパイスを確保しようとするものだ。そのために必要な人員、資金、船の3分の2をオランダが、3分の1をイギリスが提供する。
そしてスパイスの分け前はそれに応じて、オランダが3分の2、イギリスが残りを取るという協定である。それと引き換えにイギリスは、この地域をスペイン、ポルトガルから守るために積極的に行動することに同意した。こうして事態は落ち着くかに見えたが、遠征部隊をいち早く集めていたクーンはこの合意に激怒した。
アムステルダムのVOCの取締役会である「17人会」は、この協定によるイギリスへの譲歩を認めていたが、クーンはスパイスを独占することで、協定内容を破ろうと決意した。クーンは「イギリスに丁子、ナツメグ・メースの3分の1を譲ることは認められない。連中は(北)マルク諸島どころか、アンボン島、バンダ諸島の砂ひと粒についても権利がない」とVOCの役員に書状を送っている。
協定締結とともに二国合同による防衛艦隊の設置が必要となったが、クーンはイギリスには船が不足していることに乗じ、オランダのみでバンダ諸島を支配する作戦に出た。彼の率いるオランダ艦隊は、1621年2月にバタビアからアンボンを経由して、ネイラ島のナッサウ要塞にやって来た。そこで13隻の大型船、3隻の司令船、そして36隻のジャンク船を集めた。
彼の陣営は1600人のヨーロッパ人兵士(うち150人は航海中死亡)に加え、バンダの駐屯隊から参加した250人から成っていた。他にアンボンの戦士や、船の漕ぎ手としてジャワの受刑者、日本人傭兵、オランダ地元民や解放奴隷も加わっていた。クーンはそれまでマルクの海で見たこともない大きな艦隊でやって来たのだ。その3月には、バンダ諸島で最大、最も豊かな島であったロンタール島を征服した。(「インドネシア香料諸島(続)バンダ諸島」=宮崎衛夫著=より)
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