ベトナム・アオザイ縫製ビジネスの実情【後編】
「私は16歳の時にアオザイを縫い始めました。」とチャックサーで尊敬されている仕立て職人であったNguyen Van Nhien氏は回顧した。
現在84歳のNhien氏は、2年前に目がかすみ始めたためアオザイ縫製を引退した。
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「私は若い頃、父親と共に国中北から南へ、アオザイ縫製の仕事を得るため多くの伝統的な祭りに行きました。」とNhien氏は言った。
「人々は私たちがチャックサーから来たと聞くと、よく泊めてくれました。Bac Ninh quan ho音楽祭のようなお祭りの多くは1~2ヶ月も続いたので、父と私は期間中ずっとそこに滞在したのです。」
ベトナム市場が海外に開放され、90年代初頭に経済が変化し始めたため、様々な有形のものを使い、国家の独自性を確立する必要が生じた。そんな中長期間にわたる伝統を体現し、実用性も備えた民族衣装をクローズアップすることは必要不可欠なことであった。
報道によると、1990年マレーシアで開催された地域会議から帰国したヴォー・バン・キエット(Vo Van Kiet)首相は、ベトナムに民族衣装を持つ重要性に駆られたという。一年後、文化省はこのアイデアを推進するための全国キャンペーンを主導した。それと前後してアオザイ文化の復興を促進するために多くの努力がなされ、チャックサーの人々は伝統工芸に回帰することが奨励された。
「1960年代、私は会計担当者や救援隊員として働いていました。当時はアオザイを作るための生地を見つけることさえ難しかったからです。」とNhien氏は言った。「後に政府が伝統工芸復興を奨励する政策をとった際に、私もこの仕事に戻ったのです。」
今では多くの仕事が舞い込むようになり、チャックサーの裁縫師らはもはや仕事を見つけるために他の地域に遠く旅する必要はなくなった。多くの村人が帰郷し、ここに集うようになった。
何年にも亘りアオザイは再び流行することとなったが、その形状、スタイル、色、繊維やパターンなども時代とともに変化していった。このことは同時に、チャックサーの裁縫師らにとっても現在のトレンドに迅速に対応することが求められているということである。
Nhien氏は、彼を含めて少数の村人だけしか、オリジナルのアオザイを手縫いで制作することができないと言う。
「今では多くの人はミシンを使ってアオザイを作っています。」と彼は言った。
「最近私に来るオーダーはほとんど、ベトナムのアオザイをスタイリッシュにアレンジした、Ao dai cach tanです。」とDuan氏は言った。
Duan氏は家に戻り、妻のToanさんと共に地元の教師向けのアオザイのコレクションを含め、当日の注文を完了させるために懸命に働いた。
時間が許せばDuan氏のビジネスでは1週間に約100着のドレスを生産することができる。1年で最も繁忙期となるのは、新学期と3月8日の国産婦人の日の前である。
手作業は依然として比較的低コストで行われており、1日当たり約10万~20万ベトナム・ドン程度であるため、裁縫師は一般の人々にとってさほど魅力的な職業ではない。
「私の娘は裁縫師ではなく歌手か警察官になりたいと言っています。」とToanさんは笑った。「彼女はお父さんのようにいつも遅くまで働き、苦労したくないのです。」
「それでも私は、子供たち、特に息子がこのビジネスを継承し、アオザイの縫い方を学ぶことを望んでいます。」とDuan氏は言った。
ソース:http://apparelresource.asia/news/item_2896.html
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