勤め先は一族経営で50年近い歴史を持つ会社だ。2代目にあたる社長は「マフィアみたいな人だった」。気性は荒いが、あたたかさも感じた。口癖は「仕事はけんか。でも心は一つ」。工場では従業員同士のいさかいも多かったが、陰湿さはなかった。インドネシア人が約10人おり、うち2人はウセプさん同様不法就労だった。
会社が用意したアパートで暮らした。トイレがなく、自転車で3分ほどの距離にある共用のものを使わなくてはならない部屋だったが、「コンテナで過ごしていた研修時代より良かった」。同年9月には、幼馴染で帰国直後に結婚していた妻のヤンティさんを呼び、一緒に暮らし始めた。
知り合いの紹介で、ヤンティさんも市内で弁当作りの仕事に就いた。職場にはフィリピン人やベトナム人、ブラジル人などもいた。約2年の日本生活で妊娠し、05年には市内の病院で娘のディフィラさんが生まれた。出産にかかる費用は全額自己負担となった。「(病院に)不法滞在と気づかれていたと思うが、通報はされなかった。あたたかく対応してくれた」。道で警官を見かければ隠れるような生活でも、家族3人での時間は幸せだった。
だが同年、そんな生活も突然終わりを迎えた。インドネシア人の友人宅に10人ほどが集まり、食事をしていた時、突然警察がやってきた。時計は午後10時を回っていた。ウセプさんたちの騒ぐ声がうるさく、近隣住民が通報したのだった。
一緒にいたのは技能実習生だった。ウセプさんだけが身分証を持たず、不法滞在だと知られた。そのまま警官と自宅に行き、妻の不法滞在も見つかった。翌日から入国管理局で約2週間拘留された。生後6カ月だったディフィラさんとは離れ離れに。心配で眠れぬ日々を過ごした。
送還された後は、日本から持ち帰った資金を使い、木製のドアや家具の製造工場を開いた。従業員約20人を雇用している。「日本人は仕事が早くて正確。現場で学べた経験が今も生きている。10年くらいいたからね」
子どもは娘がさらに2人生まれ、3人になった。中学生になった長女のディフィラさんは、自分が日本で生まれたことを知り、日本語の学習に意欲を持っているという。
ウセプさんは「今は(一部業種で)特定技能への切り替えがあるけれど、当時はそんなものはなかった。自分と(実習先の)会社が望んで、また働くためには、不法滞在するしかなかった」と振り返る。「いきなり別れることになってしまった日本人たちにまた会いたい。今も元気だと伝えたい」。後ろ暗い過去はあっても、千葉を思い続けている。(大野航太郎、写真も)
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