■新閣僚にはかつてのマハティール氏の政敵も入る
人事で注目を浴びたのは、人民正義党(PKR)のワン・アジザ総裁が副首相として就任したことでしょう。アンワル・イブラヒム氏の妻であるアジザ氏は、これまでマハティール首相と政治的に敵対していましたが、新政権ではマレーシア史上初めての女性副首相となりました。
このほか、80~90年代のマハティール政権時代に煽動罪や治安維持法で投獄された行動民主党(DAP)のリム・グアンエン幹事長(前ペナン州首相)や同じく投獄された国民信託党(アマナー)のモハマド・サブ党首らも入閣しました。マハティール氏から厳しい試練を突きつけられた政治家らが今、マハティール政権の閣僚になっているのです。
さて、閣僚には入っていませんが、最も厳しい試練を受けた政治家は、アンワル・イブラヒム氏以外にはいないでしょう。今回は20歳の年齢差もあるこの2人がどのようにこれまで歩んできたのかをみることにします。
■異例の政治歴をもつカリスマ的なアンワル氏
アンワル氏は1947年、ペナン州ブキ・ムルタジャムに生まれました。
アンワル氏の父親は病院で働いたあと、マラヤ連邦独立直後の1959年から1969年にわたり、統一マレー人国民組織(UMNO)の下院議員でした。母親もUMNOに関わる政治家一家でした。
アンワル氏は、多くの政治家を輩出しているペラ州クアラ・カンサーのマレー・カレッジを卒業後、マラヤ大学マレー学部(Malay Studies)に入学。ここで若き政治家として頭角を現していきます。
マラヤ大学で勉学の傍ら、マレーシア・イスラーム青年運動(ABIM)の結成に参加します。ABIMはイスラーム教を基盤とした社会の構築を目的としたイスラーム団体で、貧しい学生への支援活動などをしていました。その活動が主に都市部のマレー人の間で受け入れられ、当初数百人だったメンバーは1年後に7,000人、1980年には3万5,000人にまで膨れ上がりました。アンワル氏は急成長期に代表を務め、ここを基盤に政治活動をしていきます。政府への批判もよくしていました。1974年にはクダ州バリンで餓死者が出たことを機に抗議活動を行い、逮捕されます。2年弱ほど刑務所にいました。
マレーシアで政治家を志す場合、通常、UMNOのメンバーになって研鑽を積みます。しかし、アンワル氏の場合、自分が結成に参加したABIMを中心に政治家となっていったため、他の政治家とは異例の経歴をもっているのです。
■マハティール氏との出会い
マハティール氏は1960年代にアンワル氏の父親と知り合っています。当時、両者は下院議員で、マハティール氏が1969年にラーマン初代首相とぶつかったときにもアンワル氏の父親はマハティール氏を支持していたようです。
一方、マハティール氏はアンワル氏の妻ワン・アジザ氏の父親ワン・イスマイル氏も70年代には知っていました。アンワル氏がワン・アジザ氏と結婚したい旨をワン・アジザ氏の父親に話しましたが、父親は反対。マハティール氏の回想録によると、マハティール氏自身が父親と話して結婚を説得させたとのことです。
つまり、マハティール氏は1970年代にはアンワル氏とは会っていた可能性がありますが、まともに話をしたのはアンワル氏がUMNOへの入党意思を伝えたときだったそうです。首相であったマハティール氏は1981年に二人だけで話をしたとしています。アンワル氏はUMNOの内部を変革させて、ABIMの目的の一つでもあるイスラーム国家の創設を目指したいとマハティール氏に語りました。
すでにカリスマ的な存在だったアンワル氏をUMNOに迎い入れ、マハティール首相率いるUMNOは政治的な基盤の強化を図ります。
アンワル氏はUMNO内での幹部職に就くことに強く希望し、青年局長をはじめ、次々と立候補して頭角を表します。マハティール氏とアンワル氏の関係は1998年に解任されるまで大変良好でした。
■蜜月から同性愛疑惑、政敵へ
アンワル氏は1993年にUMNO副総裁になりました。UMNOの副総裁になることは副首相にもなることを意味します。副総裁兼副首相にはマハティール氏の後継とみられていたガファール・ババがいましたが、副総裁選挙でアンワル氏が立候補。アンワル氏が勝利し、副首相の座に着きました。
一方で、マハティール氏は同年にマレーシア国家警察からアンワル氏の同性愛行為疑惑の報告を受けていました。アンワル氏はイスラーム教を主体とした強い政治信念があるので、マハティール氏は「にわかに信じられない」と警察に述べ、逮捕などの措置を取らないよう求めました。警察はこの後もアンワル氏の監視を続けていました。
1997年に警察はアンワル氏の同性愛行為について写真などの証拠も揃えて首相に報告。マハティール氏は被害を受けたとする運転手男性らと内密に直接会い、詳細を聞いて確信したようで、何かしらの措置を取る必要があると判断しました。また、財務相を兼任していたアンワル氏は、アジア通貨危機の対応で国際通貨基金(IMF)の指示通りに動こうとし、マハティール氏と深刻な意見対立がありました。この結果、マハティール氏は「政府幹部として職務を続行できないこと」、「後継者としては不適格であること」を理由にアンワル氏を副首相から解任しました。
しかし、彼はまだUMNOの副総裁です。そこでUMNO最高協議会を開き、マハティール氏は会議で隣りに座ったアンワル氏の副首相解任について本人の前で全員に説明。アンワル氏は長い弁明を行いましたが、同性愛行為については触れなかったといいます。最高協議会では彼を除名処分に決定。マハティール氏は回想録のなかで「当時、アンワル氏を追放したことは国全体のことを考えると間違っていなかった」と語っています。
アンワル氏はこの後に逮捕され、有罪が確定します。また、2004年には同性愛行為の容疑は無罪となって釈放されましたが、2008年にも同様の容疑で起訴されます。2012年には無罪が言い渡されましたが、2014年の高裁では逆転有罪となり、翌年の連邦裁でも有罪、5年の禁固刑の判決が下りました。
■世間を驚かせた法廷での面会
マハティール氏は後継にしたアブドゥラ首相を追放し、さらに(その後首相になった)ナジブ首相に対しては、政府系投資ファンドの資金不正流用疑惑で退陣を強く求めました。その後は92歳という老体に鞭打って新党を立ち上げ、政府からの嫌がらせも受けながら、マハティール氏はナジブ首相打倒の戦略を練ります。それにはマハティール氏を批判し続けてきた当時の野党勢力を結集するしかありません。この要となるのはやはりアンワル氏でした。
アンワル氏は刑に服していたため、会談は容易ではありません。そこで、2016年9月にアンワル氏が出席した法廷にマハティール氏が現れたのです。これは世間を驚かせました。その半年後も法廷を訪れ、40分ほど話し込み、このときに政治的な連携を求めたようです。
一方で、ナジブ政権からの支持者離れは深刻でした。2018年の選挙では、UMNOのダイム元財務相やラフィダ元通産相といった古参幹部が投票数日前にナジブ首相を批判し始めました。専門家は、このときにすでに潮目が変わっていたといいます。彼らはマハティール政権時に重要閣僚であった人たちで、野党勢力を応援することで、与党支持者の離反を促しました。これもマハティール氏の戦略だったのでしょう。
■ナジブ首相打倒で政敵から許しへ
そして、マレーシア初の政権交代が起こりました。新政権は早速、アンワル氏の恩赦を国王に求めます。アンワル氏は6月8日に正式に釈放される予定でしたが、刑を終えて予定通り釈放されてしまうと今後5年間は政治活動ができなくなります。このため、マハティール氏は恩赦を求め、アンワル氏をすぐに政治活動が可能な状態にさせたのです。アンワル氏は王宮でマハティール氏とも握手を交わし、感謝を伝えました。政敵同士が互いに許しあった瞬間でした。
アンワル氏は現在、下院議員でないため、閣僚としても迎えられていません。希望同盟の一リーダーとしての役目を担ってほしいとマハティール氏は述べています。マハティール氏も高齢であり、激務である首相職を長くは続けられません。「とどまるのは1~2年」と述べ、その後はアンワル氏に譲ることも示唆しています。
さて、一連のこの関係を見ていくと、まるで映画や小説での出来事のような気分にさせられます。このままアンワル氏が首相になれるのかどうかはまだわかりません。ただ、日本と同じく、マレーシアの政治の世界でも人手不足で、目下のところ、アンワル氏以外に首相として成り手が見つかりません。アンワル氏もすでに70歳。持病も患っており、下院議員の任期が切れる2023年まで今後どうなるのかは国内外で注目されることでしょう。
伊藤充臣■在馬歴13年目。マラヤ大学人文社会学科歴史学科で修士と博士号を10年がかりで取得。趣味は読書と語学。専門の東南アジアを極めるため、最近ではクメール語に注力している。
※『モンスーンの下で―マレーシアから見た東南アジア史 』より(連載第21回)
ソース:http://www.malaysia-magazine.com/news/34039.html