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プーチンの東独時代の”すべて”

 
ロシアでよく言われることだが、「元諜報員なんてものはない(諜報員は常に現役である)」。ソ連の秘密警察「KGB」で1975 ~ 1991年に働いたウラジーミル・プーチンも、この言葉の正しさを証明しているようだ。
 
プーチンがKGB時代の経歴を吹聴することはありそうもない。だから、この経歴のなかには、旧東独(ドイツ民主共和国)のドレスデンで過ごした歳月(1985~1989)も含まれているわけだが、それについてはほとんど何も知られていない。彼は一体どんな活動をしていたのか、彼と協力していた外国人エージェントは誰か等々は不明のままだ。にもかかわらず、多少のことは知られており、我々はそれを幸いにして紹介することができる。
 
◆ 「素敵なルーティン」
 
プーチンがKGB の上司から東独赴任を命じられた時、彼はまだかなり若いエージェントだった。当時、彼はすでにリュドミラと結婚しており(現在は離婚)、娘マリアがいた(次女エカテリーナがドレスデンで生まれたのは1986年のことだ)。モスクワの「対外情報アカデミー」で訓練を終えた時点では、ドイツ語に堪能なプーチンには選択肢があった。数年間待って西ドイツに赴くか、直ちに東独に行くか。彼は後者を選んだ。
 
邦訳もあるプーチンのインタビュー集『プーチン、自らを語る』で彼は、KGBのスパイたちが関心をもっていたのは、「戦略上の敵」――と彼が言うのはNATO(北大西洋条約機構)のことだが――に関する情報を片っ端から集めることだったと回想している。
 
プーチンは自分の仕事を、控えめに「素敵なルーティン」と呼び、彼が携わったし職務を列挙している。すなわち、情報提供者のリクルート、情報収集、集めた全情報のモスクワへの送付など。
 
2017年、ロシアの国営テレビ「ロシア24」へのインタビューでプーチンは、 外国での彼の諜報活動はすべて、「非合法的なインテリジェンス」と密接に関わっていたと述べた。彼がKGB の合法的な職員であることを考慮すれば、これは次のことを意味することになるだろう。つまり、彼は、非合法的な、不法な滞在者、居住者たちと連絡を取り、彼らが「中央」と接触するのを助けていたということだ。
 
ロシアの大統領になってからも、プーチンは東独時代を懐かしんでいるように見える。そして、古い同僚のことを忘れていない。例えば、彼は2017年に、元上司のラザーリ・モイセーエフを個人的に訪問し、その90歳の誕生日を祝った。モイセーエフは、東独の秘密警察である国家保安省(通称はシュタージ)に組み込まれていたKGB支部を率いていた。
 
◆ ビールを飲み、シュタージの隣人たちと付き合う
 
プーチンの妻だったリュドミラがインタビューで話したところによると、彼らの家族は、ドイツ人の清潔好きと組織力に強い印象を受けたとのこと。プーチン自身について言うと、ドイツ滞在中に12キロも太ってしまったと白状している。これはすべてドイツのビールのせいで、KGB のタフな最後の日々、リラックスするのに用いていたという。ところが、ロシアに帰るや、太った分の体重は減った。90年代のロシア製ビールはあまり美味くなかったからかもしれない。
 
また、リュドミラによると、プーチンの同僚やドイツ人を招いてよく一緒に食事したものだという。そのなかには、シュタージのエージェントも何人か混ざっていたのは間違いない。ソ連と東独は同盟国であり、東独の秘密警察の将校はすぐそばに住んでいたのだから。
 
 とはいえ、プーチン家は、贅沢な生活を享受していたわけではなかった。唯一、彼らがどうしても買いたくて金をためたのは自動車。これは社会主義国では大きな買い物だった。リュドミラのインタビューでの話では、KGBよりもシュタージの職員のほうが稼ぎがよかったように見えた。
 
◆ プーチンと怒れるドイツの群衆
 
しかし、そんなシュタージにとっても、状況は1989年に一変。ベルリンの壁が崩壊し、ドイツ再統一が始まった。1989年12月5日、プーチンは、猛り立った市民の群れが、シュタージの支部を襲撃するのを目の当たりにした。その建物は、KGBの地元の本部と同じ通りにあり、彼は、その本部も同じ目に遭おうとしているのを悟った。彼は、モスクワのKGB本部と連絡を取ろうと試みたが、返事がないので、 単独で果断な行動に出た。
 
群衆のなかにいたジークフリート・ダナトの回想によると、ロシア人の将校が建物から出てきて、閉められていた門に近寄り、こう言ったという。皆さんは、建物から離れなければならない、これはソ連のテリトリーであり、武装した警護隊が、誰かが乱入すれば発砲するから、と。
 
ダナトによれば、この将校は礼儀正しく、ドイツ語を流ちょうに話した。彼の言葉で群衆は落ち着き(誰も流血を望んではいなかった)、KGB本部を離れた。
 
プーチンは――実は彼がその将校だった――、しかし、彼の勝利を味わう暇はあまりなかった。彼とその同僚は、数日間にわたり、KGBの東独における活動に関わるあらゆる書類を破棄した。最も重要なものはモスクワに送られ、その他はすべて焼却された。「我々は書類を昼も夜も焼いた」とプーチンは振り返る。「あんまりたくさんの紙を焼いたので、オーブンが壊れてしまった」
 
その後まもなく、プーチンと家族はドレスデンを去った。彼の使命は、ドイツにおけるKGBのそれとともに終わりを告げた。
 
ソース:https://jp.rbth.com/politics/2017/08/18/824316