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シベリアのレストラン王は日本通

 
―ノボシビルスクの空港や市中心部で、誰もが必ず目にするカフェが「チャシカコーフェ( Чашка кофе )」です。デニスさんはこのカフェチェーンのオーナーであるほか、市内に多くのレストランを持ち、ロシアの外食業界の賞をいくつも獲得していますね。まずは今のグループの概要を教えてもらえますか。
 
今現在、カフェの「チャシカコーフェ」を12店、ビアホールの「BEERMAN」を6店、そしてペリメニの店「ペリメニシモ」を3店、それぞれチェーン展開しています。また、単独のレストランとして、私たちが今いるアジムットホテル内のレストラン「シビリシビリ」や、ビール醸造所を併設した「ピーバ・ファクトリー」などを運営しています。レストランの他にカラオケ店やケータリングサービスもあります。数え上げると約30の事業を走らせていることになりますね。従業員は合わせて2000人ぐらいです。店はほとんどノボシビルスク市内ですが、モスクワでもカフェをやっています。モスクワでは近い将来、ラーメン店などの出店も予定しています。
 
―自分でビジネスを始めたのは2003年だそうですね。それまでは外国企業で働いていたとのことですが、なぜ独立しようと思ったのですか。
 
経歴を言いますと、1996年にノボシビルスク国立大学人文学部を卒業して、プライスウォーターハウスクーパーズ、その次にコカ・コーラで働きました。その後ピザチェーンのマネージャー職を経て独立し、初めて自分の店を開いたのが2003年です。1号店はノボシビルスクの空港内のカフェです。当時は今の「チャシカ」のような名前はありませんでした。
 
―どうして外食分野を選んだのですか。
 
理由のひとつは、コカ・コーラに勤めていたときに出張で世界中を飛び回り、外国のレストランの良さや各国料理の特徴を知ることができたという点です。当時は本当に出張ばかりの生活で、食事と言えば外食でした。大変でしたが、それでも米国、EU、日本、東南アジアなど、各地のレストラン事情を理解することになりました。もうひとつの理由は、外国企業で働いて、経営の感覚を身につけたことです。
 
―日本との関わりは、今おっしゃった出張に始まるのですか。
 
いいえ、私は少年時代から大の日本ファンだったんです。父が私のことを、冗談で「僕の可愛い日本人」と言っていたぐらいです。中学のときは空手家に憧れていました。高校の年代になると母から「日本人」という本をプレゼントしてもらい、何度も読み返しました。ソビエト時代の末期、日本が得意とするテレビやラジオ、カメラなどの製品は、少年みんなの憧れでした。私は高校のころ英語の個人レッスンを受けていたのですが、この英語の先生は日本語もできる人で、日本語も教えてもらっていました。
 
―大学では日本語を専攻したのですか。
 
そうしたかったのですが、私が入学した1990年は日本語専攻の募集がありませんでした。言語学専攻で入学し、大学と交渉して、特例で第2外国語として日本語を勉強しました。卒業するまでに、3カ月ほどですが日本留学も経験しました。
 
―奥様は日本人と聞きました。出会ったのは学生のころですか。
 
はい、妻の千寿子と初めて会ったのは大学時代です。彼女は上智大学を卒業したばかりで、日本語教師として私の大学に来ていました。私は彼女に日本語の個人レッスンをお願いしたんです。クラシック音楽の趣味が共通していたことなどもあって、だんだん親しくなりました。でもその後、彼女はウラジオストクやモスクワなど各地を転々とし、私も働き始めたら出張ばかり。ですから長い間「エンキョリレンアイ」でしたね。結婚したのは出会ってから9年後です。
 
―日本との縁が実に深いですね。
 
私は自分のことを、日本文化から大きな影響を受けた人間だと思っています。コカ・コーラに入社したときも、日本人と同じように定年まで勤めるつもりでした。ところが会社側の事情でロシア事業の再編があり、結果的にやめざるを得なくなったんです。退社後の選択肢は2つで、再び外国企業に入るか、または友人がやっていたピザチェーンに入るか。友人というのはノボシビルスク在住のアメリカ人です。冒頭言いましたように私はここで友人の会社を選びました。すごく働いて、店舗数を当初の4店から26店に増やしましたが、オーナーとの関係が難しくなって独立を決めました。
 
―起業から14年。事業はとても拡大しましたね。どんなところが良かったのでしょう。
 
そうですね、ビジネスは好調です。私たちの店の大きな特徴はデザインへのこだわりです。ドイツのフランクフルトにあるような、スペインのマドリードにあるような、外国の雰囲気があるレストランをつくってきました。もちろん味も追求しています。カフェではイタリア製のエスプレッソマシンでつくるコーヒーを出しています。
 
―2014年以来、ルーブル急落と景気悪化という逆風があったと思いますが。
 
それでも経営は安定しています。大切なのは水泳と同じで、手足を動かし続けることです。ルーブル危機のころ外食マーケットは一時的に悪化しましたが、今は回復軌道にあります。特に最近、若い人の消費の伸びは顕著です。ノボシビルスクでビジネスをやっていて感じるのは、ここでは実直な、ルールに従った仕事のやり方が成功につながるということです。
 
―今、日本との取引はありますか。
 
今はまったくないですね。以前、食材を日本から調達したこともありましたが、残念ながら続いていません。貿易以外のことで言えば、過去に、日本人シェフに来てもらってロシア人スタッフに教えてもらったこともあります。近い将来モスクワでラーメン店を開きたいので、もし日本で受け入れてくれる店があるなら、従業員を日本で研修させたいと思っているところです。
 
―日本でロシアビジネスと言えば、その対象はモスクワ圏か、そうでなければウラジオストクやサハリンなど極東の話がほとんどです。日本企業にシベリアについて知らせるなら、まずどんなところを訴えますか。
 
日本からウラジオやハバロフスクへは飛行機、すぐ近くのサハリンでもやはり飛行機で行きますよね。結局空路なら、何時間かの違いでノボシビルスクにも来ることができますよ。ここは地理的にユーラシアの中心です。アジア、中東、EU、世界の多くの都市に4時間から6時間程度のフライトで行けます。ウラジオからモスクワに飛ぼうとすれば、東京から行くのと変わらない苦労があるでしょう。ノボシビルスクを起点に国際ビジネスを考えるのは日本企業にとっても面白いのではないでしょうか。
 
―もしご自分が日本のビジネスパーソンなら、ノボシビルスクでどんなことをやりますか。
 
私はサービス業の人間なので、考えやすいのは観光分野です。ノボシビルスクというのは非常に見どころの多い街です。ヨーロッパ最大のオペラ・バレエ劇場をはじめ、ハイレベルな交響楽団、美術館、またロシア最大級の動物園もあります。シベリア鉄道の中心の駅もある。ロシアの代表的な学術・技術都市アカデムゴロドクもある。宿泊にはマリオット、ヒルトン、アジムットなどいいホテルが揃っています。日本からだと最初にウラジオに入るとして、シベリア鉄道でノボシビルスクに来て街を楽しみ、モスクワに移動して飛行機で帰国、といったツアーもできるでしょう。観光以外では、医療や農業などもこれから期待できる分野だと考えています。ノボシビルスクと日本は将来、お互いに大事な関係になりうると思っています。
 
ソース:ロシアNOW/https://jp.rbth.com/business/2017/07/04/795252
 
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